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長く間が空いてしまいましたが、自己言及的存在論(SRO)の講義を再開します。今回は第九回目ですが、ここから本論に入ります。本論は第一部と第二部に分けられることになると思います。第一部は、いまのところ四、五回を予定しています。今回のテーマは、パラドクスと脱パラドクスです。これまで解決不可能としていわば先送りしてきた問いに面と向き合い、その解決(脱パラドクス化)に挑みます。
inter-esse
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長く間が空いてしまいましたが、自己言及的存在論(SRO)の講義を再開します。今回は第九回目ですが、ここから本論に入ります。本論は第一部と第二部に分けられることになると思います。第一部は、いまのところ四、五回を予定しています。今回のテーマは、パラドクスと脱パラドクスです。これまで解決不可能としていわば先送りしてきた問いに面と向き合い、その解決(脱パラドクス化)に挑みます。
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今回はこれまでの講義を振り返り、今の時点で見ることのできる展望を示しています。序論的な部分の締めくくりになります。分量的にはいつもの半分ほどです。ただこれまでの講義では触れなかった重要な要素の告白が行われ、また外部的実存のもつ目的が、ユングに学びつつ提示されています。次回からは本論に入ります。そこではいよいよ時間的パラドクスの解決に向けての最初の一歩が踏み出されます。
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今回は、私の哲学探究における最大の転換についてお話しします。
その転換とは、私自身が背負っていたパラドクスを、テキストのパラドクスへと外在化させた、ということです。この転換が、パラドクスの解決への途を開きました。また、自己言及性という概念が、この転換を可能にしてくれました。この用語には、八〇年代の柄谷行人のテキストを通じて出会いました。
「嘘つきのパラドクス」と呼ばれているものです。これに、自分の課題に適合するよう手を加えることで、自己言及的存在論の構想が生まれます。自己言及的存在論は、自分自身を根拠づける存在論です。それゆえ、この転換はさらに、ハイデガー『存在と時間』の源泉へと私を連れ戻します。というのも、『存在と時間』の源泉には、自分自身を根拠づける学の不可能性が横たわっているからです。
これによって、自己言及的存在論は、講義第一回の紹介文で言ったように、「ハイデガー哲学の源泉にある根源的存在論の不可能性を可能性に転じる」という意義を持つことになるのです。
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今回は、新たに立てた課題が、探究の始まりにおいては解決不可能なパラドクスに直面することだ、というところから話を始めます。それに対して私が採った対処は、パラドクスの解決を諦めることなく保持しつつ、さしあたり解決できるかどうかわからないパラドクスの解決を目指して歩む自己の存在を、(広い意味で)現象学的に探究するというものでした。
こうした現象学的探究過程には、解決不可能なパラドクスに繰り返し挑戦するというあり方が含まれます。その特異性は、ヘーゲルの現象学やフッサールの現象学と比較することによって際だてられます。というのも、ヘーゲルやフッサールの現象学は、パラドクスを抜け出るところから始まるので、パラドクスに苦しめられている存在は、彼らの現象学のうちには含まれないからです。パラドクスに苦しめられている存在は、むしろ、バタイユの『内的体験』で扱われている領域に属するものです。ですから、私の現象学的探究は、バタイユが扱った領域を含み込んだものだということになります。
これが今回の主要なテーマですが、この序論的な講義を通底しているもうひとつのテーマがあります。それは、私の全共闘体験や、晩年のニーチェに見られるもので、否定的な命題の自己言及性によって解体した後、肯定的な命題の自己言及性を取り入れた学を目標として立てる、ということです。同じものがバタイユにも見られます。この通奏低音のようなテーマに即してバタイユの『内的体験』を読みます。
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私は、全共闘運動の中に、解体的な自己言及性の論理を見てとり、逆に自己言及性の論理を基礎にした哲学を構想したのでした。こうした動きにどんな意味があるのかはいまでもよくわからないのですが、今回、後期ニーチェが同じような動きをしていることを見いだしました。
ニーチェの思想のうちに、自己言及的な性格を持つものが含まれていることは以前から思っていたところですが、後期のニーチェのエクリチュールのうちに、自己言及的な命題がはっきりと提示されていることに、今回初めて気づいたのです。
その自己言及性は、自己解体的なもので、結局はニヒリズムに到るですが、同時にまた、ニーチェは、ニヒリズムを克服する道を探しもとめていたようにも見えます。今回は、その点に焦点をあててみました。
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マルクス批判は、当時私自身がそのなかにいた文化的環境を破壊することであったために、単なる理論的な批判にとどまらず、私の存在をも還元してしまうものであった。今回は、その体験の哲学史的な意味を、デカルトとニーチェを題材にして考えてみました。
デカルトは、懐疑を哲学の出発点としていましたが、その懐疑は理論に限定されていて、その存在(共同体内存在)にまでは及んでいませんでした。それに対して、ニーチェは、懐疑を道徳領域にまで及ぼし、共同体内存在を還元することから、彼の固有の哲学探究を始めていました。そこで、自分の体験の意味をニーチェの体験に重ね合わせつつ、私自身とニーチェとを理解しようとしたのです。
後半は、実験という概念から時間的パラドクスを取り出して、ニーチェのうちに時間的パラドクスを見ようとしていますが、やや暴走気味になってしまいました。次回、別の角度からもう一度トライしてみます。
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今回は、大学卒業後、労働運動系の定期刊行物の編集をしながら、全共闘運動を取材しているうちに、その運動のうちに自己言及的なものを見いだし、そこから自己言及的な学問といったものを着想したことがひとつのテーマになっています。そうしたことを説明するために、竹内洋『丸山眞男の時代』を使わせてもらいました。このときの着想が自己言及的存在論の萌芽となりました。
もうひとつは、当時読んでいたマルクス『資本論』の価値形態論への批判です。商品と貨か幣の関係の問題は、形式的にいうと、対称的かつ非対称的な関係はいかにして可能か、という問題ですが、そのことが価値形態論の論理に即して示されます。また、その問題へのひとつの解決策として、貨幣を自己言及的存在者として提示する試みも提示しています。
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前回は方法と課題について大雑把な話をしました。方法は外部性という存在の仕方で、通常のあり方の外という意味ですが、それはまたそこで哲学的生成が行われるあり方でもあります。今回は、この観点から方法についての続きを話します。
また、課題については、前回、認識者の自己認識から始めたといいましたが、外部化したからといって、いきなりこの課題に直面したわけではありません。この課題に到達するまでの歩みがありました。簡単にいうと、はじめカントを学び、そこから或る課題を引きうけ、次にマルクスを学び、また別の課題を受け取り、さらにハイデガーに学び、自分自身の課題を引き出すという歩みでした。彼らとの関係の中で引き受けた諸課題は、自己言及的存在論のなかに流れ込み、それぞれに回答が与えられています。そこで、どういう課題が引き受けられ、またどういう回答が与えられているのか、その要旨を、カント・マルクス・ハイデガーと題して、何回かに分けてお話しすることにします。今回は「「堕落」とカント」という題でお話しします。
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この講義は、現在制作中の自己言及的存在論を、制作者自身が紹介するものです。自己言及的存在論という呼称は、ほとんどの人がはじめて耳にするものだと思います。
存在論は、そもそも自己言及性を素質としてもっています。あらゆる存在者の存在を究明する存在論それ自身がひとつの存在者だからです。この秘められた可能性を顕在化させることができれば、存在論は、ひとつの存在者である自己の存在をみずから根拠づけることが可能になります。
おのれ自身を根拠づける存在論、それこそはハイデガーが不可能と断じ、その不可能性を土台にして『存在と時間』をつくりあげた当の根源的な存在論です。
自己言及的存在論には、ハイデガー哲学の源泉にある根源的存在論の不可能性を可能性に転じるとともに、不可能性に頭を抑えつけられている現状から哲学を脱却させるという希望が託されています。