第六回 時間的パラドクスと現象学
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今回は、新たに立てた課題が、探究の始まりにおいては解決不可能なパラドクスに直面することだ、というところから話を始めます。それに対して私が採った対処は、パラドクスの解決を諦めることなく保持しつつ、さしあたり解決できるかどうかわからないパラドクスの解決を目指して歩む自己の存在を、(広い意味で)現象学的に探究するというものでした。
こうした現象学的探究過程には、解決不可能なパラドクスに繰り返し挑戦するというあり方が含まれます。その特異性は、ヘーゲルの現象学やフッサールの現象学と比較することによって際だてられます。というのも、ヘーゲルやフッサールの現象学は、パラドクスを抜け出るところから始まるので、パラドクスに苦しめられている存在は、彼らの現象学のうちには含まれないからです。パラドクスに苦しめられている存在は、むしろ、バタイユの『内的体験』で扱われている領域に属するものです。ですから、私の現象学的探究は、バタイユが扱った領域を含み込んだものだということになります。
これが今回の主要なテーマですが、この序論的な講義を通底しているもうひとつのテーマがあります。それは、私の全共闘体験や、晩年のニーチェに見られるもので、否定的な命題の自己言及性によって解体した後、肯定的な命題の自己言及性を取り入れた学を目標として立てる、ということです。同じものがバタイユにも見られます。この通奏低音のようなテーマに即してバタイユの『内的体験』を読みます。